ロッタ・スヴァルド協会について

ロッタ・スヴァルド協会はフィンランド内戦後から継続戦争終結まで活動した、女性の志願者のみで構成された軍支援組織で、最大20万人を超えるメンバーが所属し、給食・装備・看護・募金活動に始まり事務・通信、危険を伴う対空監視業務に至るまで幅広く活躍しました。ーーこれは「ロッタ・スヴァルド調査ノート」を紹介するときに用意した一文ですが、その成り立ちや終わり、その後のことには触れていません。当然、本に掲載している内容とかぶりますが、ロッタについてあまりご存知でない方のために、1ページ程度の文章にまとめてみました。

フィンランドは、1917年に独立国家となった、若い国です。独立する前はロシア帝国の支配を受けていましたが、大公国として一定の自治を認められていました。19世紀の中ごろにはフィンランドに住む人、フィンランド語を話す人たちが次第に精神的なまとまりをなすようになり、ここは自分たちの住む大地で、自分たちでその居場所を作り守っていくのだと考える人たちが増え、力をつけてきました。彼らのうちの一人、J.L.ルーネベリという詩人(彼の好物だったとされるルーネベリタルトというお菓子は最近日本でもよく知られるようになりました)により現在のフィンランドの国歌が生まれたのもこの頃です。しかしこうした愛国心の萌芽のような盛り上がりに反し、ロシアは当初のフィンランドに対する寛容な統治を次第に改め、ロシア化傾向を強めるようになります。これに抵抗する勢力は徒党を組み政党を構成したり、一部はアクティヴィスティと呼ばれる集団となりロシアに対抗できる勢力と見込んだドイツやスウェーデンと接触することで状況の改善を模索します。また産業の工業化進展や飢饉は、ブルジョワ階級と労働者階級の分極化を生み、社会不安からブルジョワ階級の人々の一部は武装した自警団を結成します。これらの勢力はのちに白衛隊勢力となります。一方で、労働者側は社会民主党を中心とした勢力を構成していました。彼らの一部はロシア革命の影響を受け、白衛隊勢力に対抗すべく赤衛隊と呼ばれる民兵集団を作り、ロシア革命後のボリシェヴィキは彼らに対しフィンランドでも革命が起こされることの期待を持っていました。フィンランドは1917年12月6日、ブルジョワ諸政党の主導で独立を果たし政権を樹立しますが、社会状況の不安は継続しており、政権もそれに対する積極的な対応を行わなかったことで社会民主党を支持する勢力に不満が高まります。ロシアでの革命は労働者運動にも影響を強め、ボリシェヴィキの支援を受けた赤衛隊の動きが先鋭化、フィンランドは独立を宣言した一ヶ月後に、カレリア方面のヴィープリでの赤衛隊と白衛隊の衝突に端を発して両勢力が殺し合う内戦に入りました。フィンランド政府は白衛隊勢力を支援しており、司令官としてC.G.E.マンネルヘイムを置き、彼らを公式の軍隊のように扱ったことも内戦発生の契機のひとつでした。この白衛隊の勢力は民衛団(suojeluskunta)と呼ばれるようになり、内戦後はフィンランド軍とは別の民間の組織に切り離されるとともに、全国の民衛団を統合する組織が成立しました。さて、前置きが長くなりました。こうした民兵集団の構成員は男性でしたが、フィンランドという自分の国を支えたい、守っていきたいという思いを持つ女性たちの中から、民衛団の活動に食事や衣類の世話という形で参加する人々があらわれたのです。はじめは民衛団の団員である夫についていくような小さな動きに過ぎませんでしたが、女性たちの動きは活発化し、民衛団という集団にぶら下がっているだけでなく、自分たちでグループを作って自分たちの中で意見交換を重ね、独自の活動を目指すようになります。そこで大きな役割を果たしたのは、ルーネベリの詩集「ストール旗手(少尉)物語」の中の一編「ロッタ・スヴァルド」という詩で描かれていた、戦場に向かう兵士についていき食事や身の回りの世話をする女性の姿です。自分たちの活動と彼女の姿を重ねる女性たちは、民衛団と同じようにフィンランド全国各地で自分たちのグループを形成し、自分たちを「ロッタ・スヴァルド」と呼ぶようになりました。こうした動きは民衛団全国組織の最高司令官にも認められるとともに、女性たちがロッタ・スヴァルドとして自分たちの組織で活動する意義を明確にする文書が発行されるに至り、各地の集団が「ロッタ・スヴァルド協会」という組織のもとに統合されることにつながったのです。それが今から100年前、1921年のことでした。

さて、フィンランドが独立をなしとげ、白衛隊が内戦で赤衛隊に勝利したのちの全国組織であるロッタ・スヴァルドの活動はどのように展開するのでしょうか? かつての主要な赤衛隊勢力はロシアへ脱出し、フィンランド国内で勢力を弱めていましたが、ロッタ・スヴァルド協会の有力者、幹部は、共産主義国家として成立した隣国に強い警戒心を抱いていました。独立から間もないフィンランドは、軍事力の裏付けも経済的な強さも不十分で、国家による政策をただ待つことなどできなかったでしょう。自分たちの使命は、会員だけでなく一般市民の中でも愛国心を盛り上げること、そして戦争に備えた活動を続けていくことでした。実際、ロッタ・スヴァルドの規則の第3条には「ロッタ・スヴァルド協会の役割は、民衛隊の思想を喚起・強化し、民衛隊を支援、信仰と家庭、祖国を守ることとする。そのために協会は(1) 愛国的な教育を実施し、国防の意志と士気を高める (2) 民衛隊の国防活動を支援する(以下略)」と定められていました。1939年に冬戦争が始まるまでフィンランドが大きな戦争にかかわることはありませんでしたが、平時において行われたロッタ会員への思想的・技能的な教育、将来のロッタ育成のための「小さなロッタ(ピックロッタ)」制度設置、民衛団とともに続けられた食事提供・応急処置などの訓練、様々な広報活動や募金活動は、戦争勃発の危機が迫った時、東の国境周辺での防衛線構築要員への食事提供という形でその成果を発揮し始めます。また並行して、国民動員で大量に必要となった装備の調達でもロッタが活躍しています。不要衣類や貴金属の収集、募金活動により、兵士の装備拡充に寄与したのです。こうした組織的な動きは、必要になった時に突然できるものでなく、様々な積み重ねによりできるようになったことです。もちろん、ロッタ・スヴァルド協会として初めて経験した戦争、冬戦争では、全てがうまく行ったわけではなく指揮系統の混乱など改善すべき点が多くありました。そのことを踏まえ、協会は規則や組織の改組、軍組織との連携強化、様々な技能を持つロッタ育成に必要な課程の増強を行いました。冬戦争の時からすでに見張り台での防空監視などの業務は行われていましたが、事務員、無線通信士や電話交換手、気象観測、秘密通信のための暗号文作成などの特殊技能まで、もはや銃後での後方支援に留まらず、戦場に近い場所も含め、あらゆる部門でロッタが活躍するようになりました。

彼女らの奮闘は、フィンランドの敗戦とともに終わりを迎えます。そればかりか、終結継続戦争の終結とともにソ連から突き付けられたフィンランドにとって苦しい休戦協定には、ファシスト的な思想を持つとみなされる団体を解体する条文が含まれており、他の団体とともにロッタ・スヴァルド協会も解体の対象として指定されました。今でこそ、ファシスト団体としての指定は不当なものだったとしてソヴィエト連邦崩壊の年に名誉回復がなされ、ロッタたちの偉業は称えられていますが、戦後、ロッタたちは肩身の狭い思いをしました。そのような状況にあっても、ロッタ・スヴァルド協会の幹部の一人は新たな団体を立ち上げ、別の形で会員を含めた女性たちの活躍の場を用意しました。これをルーツとするロッタ・スヴァルド財団(福祉活動を主な事業としている)は、現在かなり大きな組織となっています。

  • 2021年11月3日公開
  • 2021年11月6日更新:白衛隊・赤衛隊のなりたち、独立前後から内戦の記述を修正
  • 2021年11月9日更新:大公国での自治について補足
参考文献
  • Lukkarinen, V.(1981), Suomen lotat, Porvoo: WSOY:n laitokset
  • 百瀬宏(1970),東・北欧外交史序説 −−ソ連=フィンランド関係の研究−−,東京:福村出版
  • 石野裕子(2017),物語 フィンランドの歴史,東京:中央公論新社