目次
物の価値について
物に対して人が認める価値とは、その物の全ての性質を意味するものではない。
個人の身体能力の延長や望みを叶える要素として利用するための、一部の性質や機能を意味するのが価値だ。例えば食料についていえば、身体に取り込んで栄養素を取り出せるという性質がその食料の価値なのだ。
食料を始めとして特定の物の価値を利用できる身体構造は人という生物種で共通しているため、一つの物質が持つ量的な価値を複数の人数の量に換算できるのだ。実際にはそこまで単純では無いが、人同士でそのような約束が成立する程度には換算が可能であると言えるだろう。
このことは逆に人の量を物の価値に換算できることを意味する。
これによって物が人を動かす機能を持つことになる。人を管理するのに必要な物量も割り出せる。
こうして人は物に管理されている。物は限度はあるが基本的に無料であるため、その限度へ向けて際限なく人の営みは続けられる。(2022/6/19)
お金と物とコストについて
人が経済活動において必要とされるコストを人の労力の量に換算して測るのは何故だろうか。
それは人が同生物種である他者に対して働きかける労力は比較的予想しやすく制御可能であるのに対して、人以外の自然物は制御が難しく扱いに労力が掛かるのが普通だからだ。そうした制御のしづらい自然物を正確に価値づけるための基準として比較的安定した力の単位として人の労力が用いられたのだ。
現在の人類は同生物種の集まりであるから、人の労力を単位としたコストを秩序立てて管理したりその価値観を共有できる。人同士が対等に取引ができるのは、互いに同じ人という生物で同程度の寿命と同程度の腕力を持つ存在であることを認め合っているからだ。
それに比べて自然物に相対して人が取引きを行うことは無い。自然物は元来無料である。
協力できる可能性のある身体機能と特性を持った同種の生物である人に対してのみ、コスト(労力の量を数値化する)という概念を用いることができるのだ。自然物や他生物に対しては力の行使だけが秩序を動かすための唯一の方策となる。
この事実は物の性質を認知した上で働きかけ自らの秩序に招き入れて制御している私たち(物資源を利用した産業と消費によって経済社会を実現している私たち)に以下のような視点を与えてくれる。
価値の量を測り制御できるのは今も変わらず人に対してのみである。人という基準を中心にしか物事を捉えられていないのだ。
人は知らずのうちに多くの物資源を自らの秩序に招き入れたが、その物の価値や性質は人の感覚と知性により自然物から意図的に抽出したものである。物質の構造や特性などの科学的な知識も含めて恣意的に取り出されたものと見ることができる。
人に対するコスト管理だけは熱心にやる一方で、自然物に対してはその価値を見出したものに対して何の見返り(コスト)も払うことなく力を振るい、加工して生産物に変えて利用する人間の営み。当たり前すぎて誰も顧みることのない事実を今一度思い出す。
こうして人は物資や他生物を取り込んだ合成物である文明という人工物を築いた。
物を文明の内側に取り込んだつもりでも形状を変えられた自然物の一形態であることに変わりはない。それらは他生物から摂取する栄養素を除いて、自然物であり続け人と生物的に同化することはない。形が変わり場所が変わっても自然物の性質は失われない。
そして環境に存在する自然物は人を必要としてはいない。
生態系は特定の生物を中心に成立しているわけではないので当然である。人がいてもいなくても自然物はそこに存在する。
この自然物という異物を多量に取り込んだ現代文明は相変わらず、人同士の労力を基準として測るコストを基準にして社会を制御して秩序立てようとしている。それは長い年月をかけて人類が取り組んできた、同種の人という生物同士が仲良くして生き延びるという目的に向けた努力の跡だ。その目的のために自然物に対してコストを払わない。
文明に多く取り込まれた自然物は人を必要としていない。
取り込んだつもりになっている物や他生物(食料)は好き勝手に存在して人を惑わし続ける。人は物や他生物を利用して際限なく価値を生み出そうと努力を続けている。何故なら物に対するコストはゼロだから。内側に取り込んだ物によって人や作り上げた文明が壊されようと物は同情してくれない。それどころか物資源から取り出された巨大なエネルギーは人を壊そうとさえする。
この先に破滅が待っていようとも人は物への働きかけを止めることはできない。何故なら人は有料で物は無料だから。
原始の時代に手に取った物を人の秩序の内側へ招き入れ始めた時からこの事態は決まっていたのかもしれない。
物は人を飲み込み、人を置き去りにして燃え尽きるまで力を生み出し続ける。
それでも人にとっての問題はただ人同士のものであり続ける。
地球最後の日や滅亡寸前まで減少した最後の人類の集団においてもだ。人は人同士でのみ秩序を共有でき、それ以外の物は結局制御できなかったことを思い知りながら終わる。
内側に取り込んだ鉄は燃え続けた、という感じだ。自然物は有限であり、制御不能であることを嫌というほど思い知らされながらも、人は人に対してだけは物の力を背景に強い管理力を奮い続けるのだ。
物は無料で制御不能、人は有料で管理可能という両要素が人を惑わせ続ける。
これが結論であると共に希望のありか、小さな糸口になる。
この結論に至る長い前置きが人の有り様を記述する「4つの流れ」なのかも知れない。
この結論が教えてくれるのは、問題は人同士で解決するしかないということ。この重さを主張するための根拠として「4つの流れ」は役に立つのか。(2022/6/11)
伝えたいテーマ・物と人の関係について
ひたすら物に翻弄される我々が中心的なテーマになりそうだ。
その現状を端的に述べたのが「物は無料で有限であり、人は有料でコントロール可能」という文だ。
この「人は有料」とは、人を動かすのに物的な対価が必要という意味ではない。人が物質から取り出したいと望むエネルギーの量や、人が生きるために必要なエネルギーの量など、その物質から得られる富へ向かう人の欲望の量に応えるのに十分な労力という意味での有料である。
これが意味するところは物が痩せれば欲も痩せるということだ。つまり、生きる上で人が必要としているコストは物的条件ではなく人の欲の量に左右されるのではないか。
今後、地球の資源が枯渇して富は痩せても人類は人口を減らして細く長く生き続けるだろう。
そして、物がもつ巨大なエネルギー量の爆発に目がくらみ夢を見ていたような時代が終わっても、過去から側にある物と共に生きてきた我々は受け入れることができる。
死ぬ寸前まで裸で争い、裸で愛し合う。それが人なのではないか。
人は物の性質を取り出して利用しているだけであり、物と一体になったり身体のシステムにまで取り入れたりはできない。当然だがこの事実を改めて示すために本論があると言える。
人は他者を物の有無に関わらず管理できる。
人は有料という意味は、人同士が話し合う、和解と調整のための労力、コスト全般が掛かるということだ。もちろんそのコストに物も含まれるが、正しくは物そのものではなく、物を通して引き出す和解のための条件、材料、性質、特性が利用されるのだ。それによって人は管理(和解)できるという可能性を述べている。しかし、その可能性には無残な争いも手段として含まれる。それを平和的に解決するためには更なる物資が必要だ。
理論を考察することを通じて物の価値や貴重さと生身の人の矮小さを思い知らされてしまう。(2022/10/19)
物とヒトという生物種の群れとの関係について本論で何度も触れている。その関係は概ね「物は無料で有限、人は有料で管理可能」といった主旨に集約される。一般論で分かりやすく述べられているように思う。
この考えは特に本論のモデルを使わずに説明できるが、本論においてこの物と人の意味づけは大きい。本論を支える基礎的な人間観と言える。その意味でモデルを説明する前に最初に述べる内容と言えるかもしれない。
さらに言えばこの人間観は秩序が形成される過程を解剖したような視点で形成されている。秩序を形成するため試行錯誤する過程は最も人間らしい、そして人が生を実感する部分だ。(2022/8/10)
お金の役割について
物を巡る競争を調整するために必要なツールがお金だと考えれば、競争しない前提であればお金が無くても世の中は上手く回ることになる。
しかし実際には企業が資本を基に力を振るい、お金という名の権威の代替物を利用して生産を続けている。
仮説だが、お金の機能を変えることで未来は切り開けるのではないか。競争の機能よりも調整の機能に寄った運用ができないか。
お金の機能の偏りについて考える。最初は人同士の物資のやり取りの調整のために運用を始めたお金が、結局は資産を盾に強大な権力を振るう理由づけになってしまっていることについて。
お金の価値が物事を制御する力は、お金のやり取りをする人が生きる世界の自然環境の安定、物的環境の安定、生物環境の安定、情報的環境の安定、肉体環境の安定、と続く緻密な構造に支えられている。
この安定の積み重ねの段階ごとに適した調整手段がある。例えば生物的環境が不安定であれば捕食や繁殖といった調整手段が優先され、肉体環境が不安定であれば運動によって状況を回避する調整手段が用いられる。
高度に発達した経済活動を制御するために利用されたのはお金という調整手段だ。言語に基づく認知の体系の一つである法に裏付けられて安定した価値基準は、お金という曖昧な数値の物差しでも人を動かす根拠になり得た。
しかしコロナ禍が起こり、現実と数値上の資産価値の巨大なミスマッチが発生した。積み上げた言語に基づく認知の体系の根拠が揺らいでいるからだ。
このような変動は恐慌という形で過去に何度も起きており、それを乗り越えてきたのだが余りにギャップが大きいと機能不全を起こす恐れがある。
お金の価値、コストの本質的な意味は、人と人が喧嘩をせずに物事をやりとりするのに必要な労力を指す。それは価値観の共有により、高い組織力と協力関係を得ることで大きく増減する類のものだ。
一人一人の価値観が違い不仲な集団と、価値観が共有された仲の良い集団の場合を比べればコストの量は変わる。価値観が違うことで現実に争いが起きている場合には多くのコストがかかる。
その理由として価値観の違いの前に物資の不足、分け合う方法論の未成熟、方法の周知の不足が挙げられる。つまり、物資不足の状況が根本原因である。その部分を改善しなければ調整のコストは指数関数的に膨れ上がる。調整不能な程になれば戦闘により排除することで物資の不足を改善できた。この繰り返しによる物的調整の力が戦争の意味だ。
それを回避するためには物資不足の改善が必要となる。現代の問題に当てはめれば医療体制と食料供給体制の改善だ。
経済成長を前提とした社会システムが高齢化社会にそぐわないものになっている。この原因も物資の不足と調整のシステムの機能不足にある。
政治主導による社会保障の財源不足に現れているが、根本の問題は多くの人が長生きをするということは、その全ての人が健康であることを必ずしも意味しないことだ。人を養う物資には限りがある。これは厳然とした前提である。豊かさを追い求め、ある程度実現できた現代人は遂にというか結局逃れられない問題にまた追いつかれたのだ。
限られた資源を競争により奪い合う構図に戻る。
それを補うためには物資の生産力を上げるしかないのか?現実には生産力は追いついていない。その分、奪い取ったり守るための資源投入、軍備増強が行われている。これが実情だ。
お金の問題なんて些細なものだ。実際には現実に起きている資源の急激な不足の状況の影響力が全てを決めるからだ。それが上述の構図であり急速に状況は進む。お金の調整力は後追いの効力しか持たないのだ。
追いつかなくても建前として機能させながら現実の物資不足と力関係を動かして行くしかない。
物事はお金という建前ではなく、生身の人と物の存在と行使する力によってしか動かない。お金はその力の行使を認める証明書なのだ。(2020/7/3)
人類が抱える問題について
人類が抱える様々な問題は、それぞれが7つの環境層の全てに対応関係がある。
①自然環境~地球温暖化・気象変動
②物的環境~経済格差・テクノロジー戦争・情報技術・サイバー戦争
③生物的環境~食料問題全般・人口問題
④情報的環境~健康・疫病問題
⑤肉体環境~少子高齢化問題
⑥人的環境~差別問題(性別・人種・民族・文化など)紛争・人権侵害
⑦心的環境~幸福観・精神衛生問題(望んだ生を生きられるかという問題)望んだ生を生きるために必要な判断材料を十分与えられていると感じているかどうか。
(2021/1/26)