解釈と含意と課題


目次

本論を前提とした発展的な考察への期待

人の行動は環境に対する反射として起こる。
それは個人に与えられた刺激と同程度の小さな行動から始まったが、文明の発展により個人が扱うエネルギー量は増してきた。これに従い、反射たる行動のもたらす環境への影響の度合いは大きくなった。よって人の力は強大なのだと結論付けるのは容易い。

しかしそうだろうか?
人が長い時をかけて築き上げた文明が、どの様な経緯で今に至っているかを本論の視点から見直した場合、元来は最も大きな力の流れは横の行きの流れ(←)であることが分かる。
時間経過に伴い発生する縦の行きの流れ(↑)は自律的な生命活動の現れであり、止まることなく人類の歴史を推進してきた。これに対して人の文明の力は、人類史の中ではごく近年に急速に積み重ねた縦の帰りの流れ(↓)の成果だけだ。
かと言って、人は横の行きの流れ(←)という大きな力に流されるだけなのだと結論付けても何も得るものがない。

私たちはその大きな力(行きの流れ←↑)と、どの様に関わっているか?手に余る大きなエネルギー資源を手に入れて、それを持て余す程の巨大な産業と争いを生み続けていることを理解して、抗い難いその大きな力と付き合って行く道筋を考えなければならない。
本論がそのための基礎的な視点を提示できればと思う。(2021/7/21)

人の営みを知ること

「人の営み」という漠然とした言葉は殆ど何も意味していない。
営みとは、個人ごとに異なる経験に基づき形成された認知の仕組みによって捉えられた、一個人の行動の有り様を示す概念だからだ。よって正しく「個人の営み」と表すべきだろう。

「人の営み」を記述可能な唯一の概念は存在しない。営みは個人ごとに異なるからだ。
個人の認知過程において「人の営みを知る」こと自体が固有のものである。
それでは、人の行動(営み)を明らかにするという触れ込みの4つの流れ理論で述べられていることは何を意味するのだろうか。

それは「人それぞれに異なる営みの有り様を捉えるための視点の提示」であると言える。

異なることを示して、なぜ異なるのか?どのように異なるのか?を知るためのきっかけや手掛かりとして本論が役立てられることを期待する。

理論の肝は個人が世界をどのように捉えているか(世界を受け取っているか)についてである。
本論における縦の行きの流れ(↑)のプロセスで、人は各環境要素を認識する際に自身をその要素内のどこに位置付けるか、或いはどの要素を所有しているかを判断する。自分がどこに居るか、何を所有しているかを認知することで正確な自己認知が可能であるから、生存に必須の働きと言えるだろう。
この認識の過程が個人の内的秩序と外的環境を分ける。そしてその認知に基づき個人は外的環境に向けて行動を発現させるのだ。

認知の過程で何が内的秩序と外的環境を分けるのか?という問いこそが人同士の争いを避ける鍵となるだろう。
そして互いに自身の内的秩序の内側であると認識し合うことによって、人同士が繋がるためには両者の同質性が求められる。この同質性は欲求に対する満足の度合いが同程度の個人同士に現れやすいと考える。
だが、その満足度を決める要素は多分に個人と環境(容姿などの身体要素を示す肉体環境も含む)との関わりにより異なるため、対話のみで解決されることは無いのが現実だ。この観点が一つの鍵となる。

争いを避けるための鍵のもう一つは逆らいようのない流れの一つ一つを捉えることだ。人は扱い切れずに持て余すほどの大きな力を手にしてコントロール不能に陥っている。力を手に入れるためにその力に振り回されて、我先にと競争を続けている。
それでも、誰もコントロールできないと匙を投げずに懸命に力に向き合っている。
このような力の有り様を変えるためには思想だけでは役に立たない。それは人が現実に行使する力によってしか実現できないのだ。
力を行使する権力を持つ人に世の中を良くするための思想で働きかける場合においても、現実には思想を支持する人々の行動によって働きかけは実現する。

生物として環境中に存続し続けるために多数の子孫を出産するのは正しい仕組みであり、その限りにおいて環境下で生物同士が争うのは必然である。
この争いを避ける究極的な手段は生物の本能を抑える出生管理だけしかないが、それは人も生物である限り困難だろう。

結局、私たちに必要なのは生きるための苦痛を伴う理不尽をどのように受け入れるかの理由づけでしかないのだ。

本論がその理由づけの一助になることを期待する。「諦め」も一つの到達点であり、状況を最も合理的に認知した上で受け入れることの証である。それが次の一歩に繋がるのではないか?これが本論にかけた小さな希望だ。

こうして現実の受け入れと、言い繕いのために心的労働の全ては費やされる。

本論は大仰に広い視野を取っていることから、論文には向かない内容だ。一般の研究の世界では別々の分野として探求されるような内容だと思う。このような方法でなければ人の思考力では研究の作業が追いつかないからだ。
これに対して本論の視野は、研究を分担して別々のものとして探究すべきものではなく、ごく一般的な個人によって理解できるものとして提示している。そのため分かりやすい事例に絞り込んで要点だけを述べる構成になっている。(2021/10/13)

委ねるということ

人類は自らの意思に基づく行動のおかげで生存を続け文明を発展させられたのだろうか?

これは肯定できる部分もあるが、同時に「委ねる」ことで得られる恩恵に支えられてきた一面も無視できない程に大事だ。これは4つの流れ理論をそのまま受け取るだけでは気付けない、重要な含意だ。

欲望に流されるとか、人口爆発とか、食糧危機、高齢化とか避けられない問題の裏に必ずある、自らの意思ではコントロールできない自分の問題について。
自分のことなのにどうして制御できないのか?誰もが一度は抱く疑問だろう。
本論の内容はこの疑問に答えるための視野も示している。(2022/8/10)

分かることの弊害 生と死について

割り切れてはいけない、割り切ってはいけない。本論は死を垣間見る思想であると気づき始めた。秩序という概念への執着が意味するのはそういうことなのではないか。

一人寂しく事象の理解に向けて割り切り通すことの不毛さについて考えた。

4つの流れ理論という考え方は危険な一面がある。それに気づけるだけマシなのか?これを追求するためには狂っているか、人との関係の豊かさを手に入れなければならないと思う。こうした気づきは考え続けたから得られたものだが、今もその際で佇んでいる。

人の生の価値は自己と他者や、自己と周囲の事象の狭間に存在する。
離れた対象への働きかけを止めたら、その気持ちを失ったら生きられない。自己完結的な思想では僕を救えないのだ。せめてその意味まで到達していないうちに、理論を公開するべきじゃない。

きれいな言葉で表せば、自分を物に戻す(死へ近づける)ための思想だから。

人の生の中心である部分を見えないもの、分からないものとして触れずに他の確定的な秩序にのみ着目して屈する。そんな考えだ。

しかし、この意味合いを持ち出すことで本論の内容を否定しようとしているのではない。死を知ることは生きるために何が必要かを考える土台、きっかけになるからだ。やはり自分自身を救うためにあるのだ。

完全な割り切りは死でしかない。

だから割り切れない永遠の働きかけを愚直に続けるのだ。恋とか萌えとか情熱のフワッとした感じに脳を麻痺させながら世界に巻き込まれていく。

どこへ向かうか分からないのだ。それに身を任せて進むんだ。

仕事中の小さな繋がり感を覚える瞬間がある。
その実感をすること、遊びでも何でも離れた未知の何かに対して自身の身体を使って何かをして反応をもらうこと。
それが思い通りだったり違ったりすることもあるだろうけど、外的環境に働きかけを続ける様子の中に「人生の価値の全て」が詰まっているのだ。
ワクワクとか。明治神宮でお参りを済ませた後に賑やかな表参道を眺めるときの感じとか。(2022/8/31)

課題 実相における秩序の不在について

混迷を極めた世界の実相を見ると、本論で示される整ったモデルのあり方と一致しないことに気づく。内的秩序などと言う概念を想定しても個別に意見の違う人同士、集団同士は分かり合えないまま争い続けている。これが本論によってまともに記述できているのか?当然の疑問が浮かぶ。

一人で完結する世界を写した図をきれいに仕上げただけではダメだ。
本当に知りたい答えは多くの人が互いに分かり合える世界平和の方法だろう。

内的秩序のような自己のあり方は確かにあるが、それは常に外的環境に侵される脅威に何とか持ち堪えている状態だ。その外的環境には必ず人が存在する。

本論では人的環境(F)などという概念を持ち出して、人同士でしか形成できない秩序があると述べた。それは間違いないのだが、人同士だからこそ争いこじれる事実と表裏一体である点を記述できていない。
この点から逃げないことが本論の価値を高めることになる。

一つ言えるのは自らの属す内的秩序があるように、外的環境にも固有の内的秩序を持った人の集団がいるため、両者の境界は生身の身体が立つ場所の間にあるということだ。人が立つ場所の境界は大地にある。大地は本論では物的環境(B)に区分される要素だ。
こう考えるとせいぜい1メートル四方程度の物的環境(B)の内的秩序しかないことになる。
想像以上に内的秩序と呼べるものは小さく、外的環境には気候も自然も身近な仲間も見ず知らずの他人から外国に住む人まで含まれており、それらと関わって生きている。

集団内の個人同士は競争相手でありながら、協力し合う味方である。そうした多層的な関係をシンプルな内外の2つに分けた境界で説明できるか?

モデルの図上では、多層性は情報的環境(D)・生物的環境(C)・物的環境(B)に現れる。個人を中心としたモデルであることに破綻はないが、情報的環境(D)では外的環境に文字、言語情報の複雑さを含んだ多層構造がある。この探究だけで一生が終わるほどのボリュームだろう。

発声・記述・身振りなどを通じ、情報的環境(D)の外的環境で内的秩序の境界に近い部分に働きかける。この意味で、内的秩序の一時的な拡大ともいうべき作用を情報的環境(D)にもたらしているのだ。
このように情報的環境(D)の境界には内的秩序に関連する情報を受け取り、内的秩序に関する情報を吐き出す出入り口となる働きがある。

外的環境の定義を個人に関連する身近な環境要素として良いかも。情報的環境(D)で言えば、個人の外の関係ない情報については外的環境に含まないということだ。
ただし、個人と関わりのある情報量が増している現代では情報的環境(D)の外的環境は拡大の傾向がある。

情報的環境(D)の外的環境とは、このように情報のインプットとアウトプットが入り乱れる環境区分である。
個人の身体と周囲環境の最初の接点であり、様々な衝突や確執が生まれる部分でもある。物が発する情報を受け取り、行動によって情報を上書きするという、人の感覚や知性、言語活動の中心がこの情報的環境(D)の外的環境である。

個人に脅威や恐怖を与える情報も外的環境(⇦)から入ってくる。それは他者の言葉や態度であることもある。それに対して発言したり態度を示す内的秩序(⇨)の現れもこの情報的環境(D)で起こる。

生物的環境(C)のあり方は、全生物が地球の資源を分け合って、あるいは競争で奪い合う中で存在しているという生態系の仕組みが前提となっている。
生態系の食物連鎖に関係する資源の量には限りがあり、限られた空間に生物がひしめき合い、互いに食うか食われるかの競争の中にいる。

生物的環境(C)の外的環境とは何かについて改めて確認する。
それは人と命をかけて生物資源を取り合う相手となる生物と、その生物に関わる他の生物を含めた全体を示すものだ。
直接的に人を捕食したり殺害する働きかけと、人より先に生物資源を奪う他生物の行動、そして人の捕食行動から逃れたり身を守ったりする他生物の行動。これら全てが生物的環境(C)の外的環境からの働きかけ(⇦)だ。この(⇦)に対して人が食を得るためにする行動の全てが生物的環境(C)における内的秩序からの働きかけ(⇨)である。

現代人は高度な食糧供給システムの中で食うに困らない生物的環境(C)の内的秩序の中にいる。この外的環境に生存を維持するのに十分な生物がいなくなったらどうなるだろうか?食料問題の重要な課題がここにある。これもまた研究で一生が終わるくらいのボリュームのテーマだ。

この生物的環境(C)の外的環境(⇦)には人為的な働きかけも関わっている。
地産地消で暮らしていた原始時代とは違い、食糧供給は社会システム上で行われる。その社会システムの複雑な工程によって、狩猟時代のような直接的な生物とのやりとりは減った。考察の掘り下げが足りないが、水と食料の人同士の奪い合いの状況は生物的環境(C)の外的環境の枯渇が原因と言えるだろう。

人的環境(F)は集団の秩序、社会的心理の中核となる環境層だ。人的環境(F)を構成するのは個人の心理要素だ。
それに対して生物的環境(C)の内的秩序は、自集団の存続を志向する秩序に従って行動する人々を意味する。そして生物的環境(C)の外的環境は、自集団とは異なるまとまりの存続を志向して対立関係にある集団と生物群を意味する。

人同士の対立の構造を、上記のような生物的環境(C)の内外の関係で理解する考え方とは別に、人的環境(F)で個人に内面化された集団の秩序を中心に考えることもできる。この両方の作用が関わっているのだ。

肉体環境(E)は、胚から体組織や器官に分化することで個人の身体が形成される過程を示す区分と言える。
この身体構造を基盤として上の層である人的環境(F)は形成される。人的環境(F)に直接関わるのは、目や鼻の感覚器や手足等の運動器官ではなく、脳を含む内臓器の繁殖や生存のための働きである。

内臓の働きと感覚器・運動器官の働きは連携して身体を生かしているが、身体構造を維持する働き(主に筋肉を用いた運動)ばかりにカロリーを費やし過ぎると消耗によって死に至る。こうして肉体環境(E)の内的秩序と外的環境の働きは重要度によって分かれたものと言える。

心的環境(G)は集団の秩序の中から自己を抽出して認識する心理作用に関わる区分だ。
自己の利益・集団の利益・周囲環境の3つの認識の関係は、心的環境(G)と人的環境(F)を含めた入れ子構造になっている。

本論で示されているのは人以外の生物にも適用可能な根源的でシンプルな仕組みだ。
個人が使用する道具、物、言語、人(集団)の要素は物的環境(B)にまとめて含まれるため、人の営みの詳細を記述するには不十分であることが不足点として挙げられる。
この点は補足的に述べることで理解を促すしかない。(2022/10/1)

本論の視野の欠点

やたらと秩序という概念を確たるものとして用いている本論について。

秩序が形成される過程には触れずに「秩序を内面化して」とか述べている。秩序は利用するものであって従うものではないが、事実上その両方を使いこなして生きているのが人間だ。秩序を利用して離れたものへ働きかけることが行動の本質だ。
この本質とは日常における他者との関わりを意味する。この大事な一面を軽視したような視点になっていることは残念だ。辛さのあまり目を背けてしまいこのような考え方になったのか。

自分自身が人同士の関係から消滅したような理論に到達することだけでは、人生のパーツとしては不十分だ。
考えを追求することによって、自分自身が生きたいと思える人生の中にいることを知ることが何より大事だから。

秩序が形成されるまでの過程である、個人の能動性は人の生きる様そのものだ。その過程を飛ばして冷徹に、結果として形成された秩序だけに着目した論説であることは意識する必要がある。(2022/8/23)

発展的な考察 縦の流れの現れる仕組みについて

縦の行きと帰りの流れ(↑↓)の現れる仕組みについての仮説
⇨⇦のせめぎ合いで⇨が勝った場合、内的秩序の容量が増し⇩の力が働き、⇦が勝った場合は外的環境が増し⇧の力が働く。
文明の発展する傾向がある場合には概ね⇨が勝り、内的秩序の範囲を広げて⇩が働く傾向がある。人類の内的秩序が勝るに従って人が占める割合が高まることから、この説の整合性はある。

一方、人類全体ではなく個人に着目した本論において、↑から↓へ反射するメカニズムはどう考えるか。
⇦が外的環境からの働きかけとして行動に至る心理的要因を意味することから、実質的に↑は⇦と⇧の合成として現れる流れといえる。
そして⇦に潰されず抗う⇨は、無意識で自律的な身体維持の作用と意識的な行動による作用の両方を意味する。行動へ向けた意思が心的環境(G)の⇨で発生して、⇩はその波及として身体を行動に至らせる。
心的環境(G)の⇨は人の行動へ向けた意思であり、道具や言語や他者を自己の身体機能の延長として、離れた対象へ意図をもって働きかけることを志向する。意識的な行動の制御の全てがこの狭い範囲である脳で行われるわけだ。

上述の無意識で自律的な身体維持の作用について。
⇦に対する⇨は常に全ての環境層で起きている。言い換えると、⇦に流されながらも固有の系を維持する作用が続いている。この作用を本論では外的環境に対する反射と呼んでいる。
⇨と⇦のせめぎ合いのうち反射である⇨が生命の正体であると言える。深遠な生物学の分野だ。

この考え方の角度を少し変えると、⇦の中に⇨は存在するため、⇨の働きは強制的に運用されていると見ることもできる。これは↑と↓の概念が消えかねない視点だ。
しかし↑↓は人の生命のあり方を解明するために、自然現象の本筋である←→の派生的な現象として抽出した概念に過ぎない。よって↑と↓の概念を除けば人の存在しない自然現象が記述されるだけである。

以上は、物質的特性の違いに基づく入れ子の関係により、逆らえず環境の影響を受ける生命の有り様を示す⇧⇩と、自然環境下で対等にせめぎ合う物質同士の関係を示す⇦⇨の概念の違いについて述べられたものだ。
各環境層において、⇨も⇦も共に←の流れの中に混在する物質の集まりである。そして⇦は個人の内的秩序に対する外側の働き、⇨は内側の働きを意味する。

常に⇨と⇦がせめぎ合っていると考える方が自然だ。そして、変動を続ける⇨と⇦の関わりの状態によって⇧と⇩が起こると考えられる。
実例を挙げて検証が必要だが自然な考え方だと思う。その時々の各層の状態によって行動の重点が変わることの原理として示せたら良いか。(2022/10/1)

後書き

本論は図書分類法と対応関係にある図を示すことを目的として発案したものではない。

「人は大きな4つの知性の在り方を持っており、それらが繋がり一つの体系を作り出している」という本論の主題を4つのそれぞれについて、該当すると思われる一部の学問分野を取り上げて、一例として示した。それだけのことだ。

そして取り上げた学問分野の性質に着目すると、本論で示される4つの傾向に当てはまることが分かる。よって大雑把な括りではあるが4つの流れに当てはまる図書分類の知識分野も、概ね同じように関連し合っているのだという仮説が立てられる。

そして、人それぞれにその大枠を埋めるパーツを集めて個人を成立させているという見方が導かれる。
伝えたいのはこの見方を通じた人の姿を見つけるための経路だ。誰もが同じ経路を使っているが、成立する個人はそれぞれ異なる性質を持っている。それでも人の持つ共通性は、受け入れることになる運命を共有していることも意味している。
本論で導かれるのはここまでだ。

人の運命を知ろうとか大それた主張をしているのではない。だが仮に運命を知ろうとするなら、まずは自分を知るための手段を通して置かれている立場を知ることが始まりになるだろう。

それは各々が辿り着くものだし、意識せずに誰もが内面化しているものだ。しかし「もっと知りたい」と望むなら先人が集めた知識の山が役に立つ。
中でも学問的な知識は有益だ。その一部を取り出して、手掛かりの一つとして示したのが4つの流れ理論である。(2022/11/21)


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