目次
- 自分を省みる
- 冷めた目で理論を見る
- どうすれば伝わるか
- どんな風に見てもらいたいか
- どんな風に見せてどんな意見や指摘を受けるか
- 公開した後のこと
- 考察過程のメモ
- 本論はアートか
- 本論を人に見せる態度について
- 自作のイラストを起用すること
- サイト構成についての思索
自分を省みる
心的環境で↑が↓に折り返すタイミング、きっかけは何か?そもそも心的環境の↑と↓の違いは?↑の層の間は物質的な境界で説明できた。よって心的環境の↑も自分と他者の境界という定義ができる。↓は信号の発生の経路?(生理心理学の分野で余計ややこしい)
ぶっちゃけ説明できないし、記述もし切れない。それでも自分は生きられるし、学問上の発見があろうがなかろうが、今まで運よく得られた成果を生かして生きればいい。
知的な発見は人生に必須なものではなく運が良ければ得られる恵みなのだろう。自分がしようとしているのは何か?ただの趣味なのだ。世界を分かったような気になりたいだけ。それよりもっと大事なことがいっぱいある。自分の人生をちゃんと生きられているか?生き詰まりを感じているじゃないか。
実は取るに足りない考えだって、いや答えの出ない考えだと分かってしまうのは良くあること。解るには自分の持つ知識が足りない。それも恥ずかしくない、普通のこと。
本論でしつこく述べていた集団の秩序を自分自身は生きていないのではないか。
そうした生き方を選択をするのは重い。自分を幸せにしたいだろう。
諦めから始まり、諦めに終わる理論ではなく、まだ諦めずに自分の人生を良くしたいと思う。そのためにできることをまだやっていないのでは?(2022/8/10)
冷めた目で理論を見る
4つの流れ理論の主張の仕方としては一般論とか真実であると主張するのではなく特殊な論説であることを自覚しておく必要がある。冷たすぎる、専門的すぎる、日常の実感と異なる。そういう面白さとか特殊さが伝わるシンボルとして自分の絵を利用できないか。(2022/8/24)
今更だが、ここまで記号を使って記述した文ってのも特殊だなあ。
自分には馴染みのない理系の論文みたいだ。「語じゃない」ところ。こんなんでも興味を持ってもらうきっかけになればいいな。書き切れなくてもいい。枠組みだけでも示して面白がってもらえてフォロワーを得られれば。書き切れないし不完全になっても仕方ない。そういう題材に手を出しているのだから。
百聞は一見にしかず。これを噛み締めてなんとか分かりやすい図に辿り着きたい。それこそ不完全で穴あきでも分かるところだけ埋めた全体図を作成することが大事。それを読者と共有することだ。(2022/8/25)
どうすれば伝わるか
記号で示されるのは広大な定義。だからこそ言語を用いない点に意味があるのかもしれない。
←自然科学・物理法則で捉える見方。↑心理過程について、生理心理学。
↓文化・人の営み・行動。→人の文明の功績・歴史。
膨大な学問分野に掛かる内容だからこそ、数多くの人に議論に加わってもらうことで価値のある提唱となる。
既存の学問分野のどれにも属さないので、誰にでも参加して欲しい。
主張の核は単純だ。時が経つと空腹を感じるから、食事をすれば生き続けることができる。この流れを4つの記号で捉えるだけだ。その4つの記号にはそれぞれ深い意味がある。その4つが繋がり繰り返される様を、人を取り巻く事象を7つに分解することで説明しようという試み。
これが何を意味するか。人それぞれの視点で語ってほしい。そしてそれは4つのどの流れの何の層についての話なのか、分類して投稿して知恵を結集して欲しい、みたいな。
いっそ完成は各分野の専門家に任せる方が、いやそれしかないのかも知れない。自分は枠組み作りの役目を果たすために労力を費やす。本論の完成ではなく司会者的な立ち位置。こういう選択、こういう役目が発想者には与えられるものかも知れない。
文として発表する場合の構成は、4つの流れの各層を順に繋がりのあるものとして述べてゆく形にするのが最も読みやすく説得力がある。真正面に向き合えるように見せる。その後で導かれる主旨と含意を述べる。(2022/8/27)
4つの流れの定義を既存の学問分野を例に分類して示す。
[→過去・↑現実・↓今・←未来]
歴史、芸術、学問、文明、人が過去に残したもので現代に引き継がれているもの。
いかに発表が可能な表現に持ち込むか。自分だけの論を言葉を尽くして述べることが目的ではない。全てが新しい論ではない。既にある論に基づいて発送したものだ。各分野の専門家からの補足や指摘やアドバイスも想定される。
そうした意見をもらう「器」を示すことが目的だ。自分がどのようにしてその器の材料を自力で集めたのか、その労力やセンス、才能とか過程を最初に延々と聞きたい人はいない。最初に知りたいのは見ず知らずの人が何を言おうとしているか、それだけだ。その内容によって詳しく知りたいかどうか判断される。
もう既に知っていると言われることは覚悟の上で、自分の声としてその理論を述べる。自分で声を発することが大事なのだ。(2022/9/24)
どんな風に見てもらいたいか
公開するサイトの構成について。
大枠の中心的概念の4つの流れと7つの環境層と内的秩序と外的環境。これが基礎中の基礎。で、それ以降の詳細を述べるための地図として全体図を示す。そして要素ごとに番号をつけて順に並べて行く。これには時間が掛かるだろう。しかし、全てを正確に詳細に述べる必要はない。
既にそれぞれの要素に該当する専門分野があるので、それらに詳しい人たちからずっと適切な補足や記述が得られると思う。
自分はこの視野を通じて見えたことがあり、それを伝えたいと思っている。自分はそう感じた、ということを述べるのであり、この視野から導かれる事実は一つではない。
よって解釈例の一つとして述べることになる。
最初に示すのは図という絵、どのようにも解釈できる事実の縮図だけ。
読者に示すのは基礎的なその図の意味するところだけ。
ここまできて何となく表したいことや訴えたいこと、どんな風に読んでもらって読んだ人を巻き込みたいのかが分かってきた。専門的な、詳細な知識を持っている人たちの様々な考えを入れる器としたいのかも。大それた考えだが。
そのために番号ごとの要素の意味する所、概要をわかりやすく述べて入口として示す役割を自分が担うことになる。指摘や批判にあったとしても叩き台(叩かれ台)としての役割が果たせれば御の字かもしれない。(2022/9/29)
自分にできることは概要図を完成させるに至った過程の解説ができること、どうすればその視野を獲得できたかを説明することだ。
例えば自分だけでは価値がわからない部分が評価されて、それを求める人たちに答えて行くことが自分が著したものが導いた役割なのだと気づく。
そこに初めてつながりが出来るわけだから、発表もせずに悶々として考えている段階では何も生み出さない。評価や価値を見つけてくれるのは他者であるから。自分はそういう人たちに応えることで生活の糧を少しでも貰いたいと思っているのだろう。
自分がどのように見られたくて、どのように評価して欲しくて表現をまとめるか、その心意気がなければ始まらないのは当然だが。その望みと実際の見られ方との違いはある程度受け入れるしかないだろう。(2022/11/11)
誰も知らない驚愕の真実が明らかになるという触れ込みではなく、敷居は極力低いものを目指す。誰にでも分かりそうな優しいインターフェース。(2022/10/26)
このテーマは一人でまともに負えるようなものではないので早目に手放して共有できるものにしたい。手がかりは人の知の集積、人の限界と可能性の最大値。
自分は器を見つけただけ。
その器を満たすのは人の各々の知識と感性。自分はこの器を満たすために知の集積である学問の力を借りた。そして自分なりに器の空白を埋めた。そして結論やまとめや考察に辿り着いた。
自分にできることは知の集積が概要図のどこに該当するか示すことを通じて、この考えに触れた人がその人なりの考えに到達するための手がかりを示すことだ。既にある学問同士の関係を示すのが本論の概要図だ。
既存の学問分野がどこに当てはまり、それらが何を意味するかの概要を示すことで、それぞれの学問分野の意味する所、他の分野との関わりを知ることができる。その大きな関わりの体系の中に自分がいることを知る。
学問は知ることがゴールではなく手段なのだ。知ることを通じてテストに受かれば多額の財産を管理する資格が得られるという一面も事実だが、そのような手段としての知識が全てではない。もっと大きな視野があることを概要図は示している。(2022/11/20)
自分はあくまでも素人であり、放送大学の教養学部を卒業したばかりの学士の立場であることの表明は大事だと思う。その目線、立場、多くの一般人に手が届く知識レベルで発信して、内容も理解できるように。
気づいていないことに気づかせることはできる。肝はシンプルに整理して捉えること。物事をそのように捉えることを好まない人には受け入れ難い考えかも知れないことを最初に断っておきたい。
逆に物事を分かりたい、知りたいと望む人にとってはこのようにシンプルに整理して受け入れやすい形にしたモデルは役立つと思う。(2022/11/29)
どんな風に見せてどんな意見や指摘を受けるか
論の正しさについては述べた通り専門的な知識による補足や修正が必要だ。本論はぼやけた大括りの学問的な枠組みに過ぎない。
その一方で本論に基づき作成した概要図は、正しいかどうかよりも機能を問われる一面がある。
独断で既存学問を整理し直しただけで、しかも実は多少間違っていたとしても分かりやすい方が好まれることもある。このように修正しながら使える枠組みの機能性という二つの側面が満たせればと思う。
分かりやすさを重視するために、既存学問へリンクをし易いユーザー寄りの表し方にする。そして詳細を詰める方は未解明で非詳細な状態であることを明かして、大枠そのものの妥当性を問う。
そのための1~42の枠組みごとに意見を述べられるようにする。ここが野心的であり、ほぼ全ての学問ジャンルにまたがる議論を自分一人で相手にできるはずはない。よって、完成形を作ることも見ることもできないけど、それにつながるツールだけを提供する形になるだろう。
原作者のような立場で、原作を自由に書き進めることができる一方で、他者による派生的な研究は考えを良いものにするために受け入れる。そうあるべきだろう。
GoogleもwikiもTwitterもamazonも図書館も大型書店も、広いジャンルを扱うメディア、媒体は独自の分類体系を持っている。ある程度の共通項はあるだろうが、媒体ごとに異なる体系になっていると思う。
そのどれにも属さないものとして提唱するのが本論の体系なのかも。かなり大雑把だが最も本当に知りたいことに近づける、知の分類マップ。
しかし、本当の世界は理論で示されるような内と外の関係で成り立っている訳ではない。(自分にとっての)内と(他者にとっての)内の関係なのだ。理論の前提がリアルじゃない。自分と世界だけの2元論の世界を思い込みたいだけだろう。こんな偏った思想を一度は全て捨てる勇気もいるのかもしれない。
横の帰りの流れ(→)のベクトルは概ね人の生態を逸することはないが、個人ごとに異なる。それを単純な「横の帰りの流れ」という語で一つにまとめてしまうところは宗教的というか観念的なものになってしまっている。一番大事な所なのに記述が大雑把過ぎるという欠点。逆に潔いとも言えるか。
未来への働きかけ、離れたものへの働きかけが人の生なのだという結論も悪くはないが、当たり前のことをこじつけただけだろう。もう一歩進んで汚い人間に戻る勇気を持とうか。割り切った世界を捨てて。発表は今じゃなくても良い。本当に当たり障りのない趣味でやるべき内容だ。(2022/10/22)
専門的な表現、専門用語を使わない(使えない)ことが逆に売りになればありがたいと思う(2023/1/25)
公開した後のこと
持続可能性について。
発表することも大事だし、そこに至るには労力が必要だけど、それがいかに十分できても、その後の維持管理や持続させてゆく労力はそれ以上かもしれない。発表するまでのように到達点がわかる目標ではなく、時間をかけて世間様とやり取りを続けるのだから。それをする心構えが必要。
自分の全てを曝け出すのではなく、自分の完全な出来を表すのでもない。その中間あたりで反応を見ながら、その時点で自分のできる範囲でやれることで応える。そのための線引きというか気軽さは必要だろう。私は~までしかしないと宣言すること。
想像することや知ることが好きな、好奇心旺盛で考えることを愛する立場。
山登りに例えると自分の立場が伝えやすい。知りたい、到達したいという欲求。到達したことで世界の何かが突然変えられるような行為ではないけど、思いのままに想像力を働かせて見たことのない場所(知見)に到達する行為は喜びだ。そういう立場。多くの知見が集まってそこを目指せるなら意義がありそうだ。
そのために図に番号を振って基礎概念を示したら、それぞれについて述べて行くのは勿論、後から追加や補足の更新も行う。
真剣に論文を書くのではなくても、一言言いたい専門分野に通じた人は大勢いると思う。そういう声を取り込みたい。
そのために大事なことには番号をしっかり振ること。そして矢印の概念を共通ルールとして設ける。
例えば⑤について、③↓⑥について、④→③について、①の←についてとか。述べる対象を指定して述べるというルール。
それでも誰にとっても未知で、記述不能なものが私たちの行動の働きかけの先にあることは押さえたい。何の行動をするか?という問いかけ。そのための判断材料としての視点。(2022/9/30)
この先、どのような形で自分の理論と付き合うことになるのかを考えた。
これが正しいかどうかを明かすことを自らに課し、そのような内容を示すために自分を追い込むのではない。他の人と一緒に考えることで、色々な人と繋がれるツールにできるのが望ましいと思うようになった。それが自分の考え方の性質であることに気づいた。
この先どのような人生を送るかに関わらず社会とのつながりを持ち続ける必要がある。そんな未来に対する答えの一つを自分は持っていた。
それがこの考えを公開すること。何の役に立つかもわからないけど、多分それしか繋がる糸を持っていない。多くの人と繋がれる言葉を持っている、自分の論についてそう思えるのは幸せかも知れない。
見ず知らずのネットワーク上の人々は、自分の考えを述べている。そんな人とのつながりが何なのかはよく知らないけど、節度をわきまえたやり取りがしたい。その中から意味のある行動が生まれるかも知れない。そんなことを考えながら意見を投げている。
Twitterという情報が一瞬で消費される世界で漫画を見てもらえたとしても、それは一瞬の世界だ。漫画で勝負する訳じゃないけど。最初に概要の図を示して1~42まで順に一つずつコメントしてゆく。それがツリーになるように。
そこで示されるのは自分の持つフラットな学習姿勢だけ。誰かと仲良くなったり、イチャイチャする漫画がよくTwitterで見られるけど、この歳になって読むと虚しくなることがある。若い時に読んで漫画みたいになったら良いなと思うのではなく、そうならないことを思い知らされるような感じ。
誰もが自分のことで精一杯だ。本当に役に立つ良い情報を発信してくれる人にしか食いつかない。自分も正直何を表現しているのか分からなくなってきた。眠気だけが襲ってくる。
取り繕わないありのまま。それを示すしかないのだ。概ね手順は決めた。あとはするだけ。(2022/10/13)
諦めずに続ければ、自分に合った表現方法に辿り着く。それが何なのかわかるまで色々やってみることだ。(2022/10/18)
考察過程のメモ
今後の予定。(大分ぼやけた論説であることも分かってきたが)最新の正解に大分近づいた各層の内的秩序・外的環境の定義を反映した内容を概要図に書き込む。
そして⇧⇩⇦⇨の関わりを検証する。この作業が大事。縦の流れと横の流れの違いが反映されているかどうか、当初の4つの流れの定義との矛盾はないか。←と⇦の記号の違いに意味はあるのか?
⇧と⇩は全体に影響が及ぶのに対して、⇦⇨は個々の部分の関わりの集合であるという違い。⇧⇩は↑↓の定義である心理と行動を示す図上の関係になっているのか?⇦⇨は←→の時間に伴う変化の流れと、人の働きかけの積み重ねであることが伝わるように図上で示せているのか?
この図を中心として論の理解を促すことになるため、以上の検証が準備段階の最大の山だ。(2022/10/10)
本論はアートか
本論は論文ではないがエッセイという程に気軽なものではない。
純粋な真実の構造を削り出す試みはアートに通じる姿勢であり、自分は表現物を作ろうとしているのだと気づいた。その意味で解釈を見る人に委ねる部分はあっても、妥協できないことも出てくる。少なくとも論文ではない。リアルな創作物といった所か?意見、表現物だ。
(概要図上の4つの流れの組み合わせで概ねこんな感じの螺旋状に伸びる流れで世界は進んでいるというアート?)
概要図を完成させることがどれだけ大事な過程か改めて分かった。
一種のアートであること。図を作るのが最初のステップであり、それが全ての方針を示すこと、もちろん途中で変えられるが、その程度の半端なものでは意味がないこと。自ら重責を負うつもりはない。むしろ重荷を下ろして、他の人にも持ってもらいたいし、それが本論を公開する目的の一つのなのだから。(2022/10/11)
自分の積み上げた論は哲学であり、アートに分類されるのだと気づいた。
どのように飾り立てても本質は変えられない。そういう自覚が必要だ。どれだけ極めてもその性質上、哲学やアート以上のものにはならない。それなりのものとして作り上げることは出来たとしても勘違いしてはならない。
だから今後、概要図と向き合って隙間や不足を埋める作業を続けることに意味はそれなりにあるかもしれないが、その作業を通じて表そうとしていることの本質によりはっきりと気づき向き合わされることになる覚悟はいるかも。(2022/10/23)
本論を人に見せる態度について
本論を人に見せる態度について。
明らかにどの分野も専門的知識に及ばない一般人レベルに毛の生えた程度の知識が元になっているので、「勉強中である」とした方が、意見として受け入れてもらいやすい。事実として、そういった浅く広い視点をきっかけに組み立てたものだから。
「ここまでは分かった」ということを示し、それが共感を得られるかどうかがポイント。
どの層の内的秩序・外的環境についても言えることだが、その専門分野の主要な説を取り上げているわけではなく、想像で書いている部分も多い。
区分の仕方も間違っているかもしれない。しかし大枠を掲げ、一つのマップ(概要図)上で仮にも一つの基準で多くの事象を捉えるのは面白いかもしれない。
本当にそれだけの考えかも。(2022/10/11)
自作のイラストと本論の共通点

自作のイラストを利用しない手はない。
多くの人の気を引くために文章という体だけにこだわるのではなく、意図と意味づけのある起用をして役立てたい。
自分の絵の特徴はリアルよりもスッキリ割り切って線、図としての調和を重視する所にある。絵の中にリアルを埋め込むことよりも単なる線を引いて、その線を見る楽しさの中に人の像を見つける錯覚のような人の本能に従って表した作品。
元々単なる線の中に人らしさや生命感を見つける感性を人は持っている。その生の線の良さを残したまま、人の像にしたのが自分の絵なのか。言葉にしにくいが。
本論でも重視しているのは人に関する大きく複雑な事象の割り切りだ。それを理解して言語によって記述する。特に本質とか原理といったシンプルなものに着目している。言語が絵画における線であると捉えれば本論と絵の特徴は一致する。
好き勝手に割り切る、飲み込む、受け入れる、そしてこれでいいのだと単純な言語に託してアウトプットする。それが自分の眼差しだ。
自己満足、自己完結、だがその先にあるものも見据えている。
本論は自分のための言葉だが、それは一歩前に自分を進めたいから必要なのだ。自己満でも共有、共感してもらえる出来にはできる。自己満の割合が大きいので冷たさや周囲との隔絶もあるが、そうしたイメージや伝えたいことのシンボルとして自作のイラストが使えると思った。
間口を広げて「自分が見つけた世界の単純な仕組み」という触れ込みで見せる。
そして最初に見せるのが概要図と4つの流れの記号とそれぞれの意味。これで終わっても良いくらい。あとは解釈だけだし。(2022/9/10)
サイト構成についての思索
芽が出て枝葉が広がり、幹が形成される。
このような植物の成長の様子は人の発達過程のようであり、本論の発案から探究の過程もその様子を現しているかのように思える。このような核心的な含意は本論の最終テーマになるだろう。しかしそれはひとまず置く。
なぜならそれは自分にとっては当たり前のことであり、価値と呼べるようになるのは他者に伝わるように可視化された時だけだからだ。
だから、まずはそのための作業をする。まずはサイトの固定ページ、伝えたいことの幹になる部分の作成なのだが、それは本論の芽なのか幹なのかという疑問が浮かんだ。
固定ページは多分、芽の部分だけど幹の部分も見せる必要がありそうだ。文の構成で言えば問題の提起が芽の部分となり、それが広がり展開する解決策つまり枝葉が成長した結果として、大きな結論と発展的考察である幹と成る。
こうして小さな芽は晴れて大きな樹木となって問題を解決する太い幹となるのだ。ちなみに植物にとっての問題解決とは繁殖と存続を意味する。
ということで芽と幹は大いに関係と繋がりがある。
固定ページの役割はそのどちらかと言えば芽の方だろう。だが、一応はその芽が枝葉をどの方向に広げて、どんな幹を形成しようとしているか道筋を示した方が良いだろう。論の内容を受け取る読者が、どんな風に枝葉を伸ばして幹を作りたいかの希望に応えやすいだろう。その枝葉の道筋の手掛かりとなるのが、一応は論の幹らしくなった「編集テーマ別のまとめ」ファイルだ。(本サイトの4つの流れ理論のページ)
そこには、文で表現され可視化された論のポイントが一通り示されている。固定ページは芽の部分に過ぎないが、その可能性を一通り羅列した機能を持つものであるべきだろう。胚を形成する幹細胞のように。
で、その論の展開の結果表された像は筆者個人の知の体系の発達過程を詳細に、体系的に述べた文章になる。
その体系は筆者個人に固有のものだが、普遍性のある部分もあると思う。こうした表現物であることから、一応は私個人のものであることを示すための仕掛けとしてイラストを有効に使えたらと思う。そのような意図をもって起用していることも表明したい。多分初見の人は疑問に思うだろうから。
最初に発想した自分中心の論説である「社会的地動説」という芽が、4つの流れ・7つの環境層・内外の関係といった枝葉に広がり言語化されることで、自分は社会に繋がる可能性をもつ知性を内面化することができる。こうして自分自身の知性という幹が形成されて一本の樹木となる。
こんな風に伝えたいという統括的な論に至り始めることは、幹が形成されて一本の樹木として成熟したことを意味する。
つまり、この論が意味するところを赤裸々に明かせば単に「私についてのこと」なのだ。筆者自身の知の有り様がどのように形成されているかを整理して言語化しただけのものだ。
言語化できたのはそれなりの価値はあるかも知れない。だが本質的にはまだ「私のもの」を脱していないため、それを象徴する意図で私らしさのシンボルとして自作のイラストを起用したのだ。これが私をモデルに示した論説の有り様を少しでも伝える助けになればという願いを込めて。
勿論、単にイラストを見せたい意図もあることは否定しない。
話はずれたが当面の問題であるサイト作りの固定ページの構成の重要さが分かった。枝葉につながる芽の役割を果たすが、枝葉を伸ばした到達点つまり樹木の全体像も示す必要があること。
全体が見えるほどに大きくなればある程度主要な枝が分かってくる。それらを一通り示すのが固定ページの役割である。主要な枝を抜き出すための素材は用意できている。(2023/1/10)
