四つの流れの価値と魅力


本論の価値について

人の生の中心にある何かをやりたい・知りたいと望む純粋な主体を取り出すにはどうすれば良いか。

そのためにはこの世の全ての事象からやりたい・知りたいと望む対象を明らかにして取り除くことだ。そうして残るものとして純粋な主体は抽出できる。これを論理的に正しいと言えるかは難しい議論になりそうだが、この場では正しいものとして述べたい。

全事象の中から人の純粋な主体を取り出すためには、やりたい・知りたいと望む対象となる全事象を明らかにして認識すれば良い。そうすれば識別できると言うわけだ。しかし、それによって識別できるのは、知ることが可能な事象の範囲の限界だけである。そして、知ることができない範囲が純粋な主体であることだけが分かる。

この不明である主体は常に何かをやりたい・知りたいという欲に突き動かされている。純粋な主体とはやりたいとか知りたいという欲そのものなのだ。

当サイトで紹介する「4つの流れ」という考え方は結果として「ありのまま」の人の生を突き詰めることによって「純粋な」人の生の主体を浮き上がらせたのだと言える。

しかし考察を始めた当初はこのような意図はなかった。人の生を明らかにしようと探究をした結果、唯一不明だったのが人が何かをしたいと望み何かをする姿のあり方だったのだ。

それは端的に私たちが日々関心を寄せる好きなものとかやりたいことだ。おいしい食べ物の事とか魅力的な異性とか着飾る事とか遊びのことなど。当たり前のこうした日常の自分達のあり方を考えたり気づくためのきっかけとして本論は役立つだろうか?

本論の結論から見えるのは、知りたいと望み明らかにできる対象を全て明らかにした結果としてわからない事として残ったのが「それ」であったと言うことだけだ。これはわからないことがわかったと言うことで、わかったと言えるのだろうか。

このようにある意味で当たり前のことしか述べていない本論は、好きなものに夢中で過ごす人々にとっては価値のある視点には思えないだろう。しかし、現在迷いがあったりものごとを見る視点を変えたい人には何かをもたらすかも知れない。

それでも感想として想定できるのは「間違ったことは言ってないけど、それだけであり、自分の興味関心がない視点だ」と言ったものだろう。

そんなものをわざわざ見る価値とは、自分が当たり前に思っているけど当たり前すぎて気づけないことに気づく経験を得ることにある。

その大切なものを浮き彫りにするための俯瞰的な視点が本論の価値なのだ。

本論の魅力について

これほど個人に「近く」それでいて最も個人の関心や生き方に「関わりのない」視点は存在しないと自信を持って言える。

最も近いのに関わりがないとはどういうことか?
実際に筆者も自身の発想した視点でありながら普段はそれを意識することなく日常を興味関心のあることに費やして暮らしている。「4つの流れ」の価値とはこの日常の普通とか当たり前のことがなぜ当たり前なのかを知ることでその有り難みを知るという教育的なものだと思う。執筆者本人が本論の価値を飾らずありのままに述べればこれだけのことだ。

しかし、これが逆に本論の魅力になっている。

私たち一人一人が一番に興味関心のある大事なことは、崇高な思想とか喫緊の環境問題などの人類全体に関することではなく、日常を過ごす中で感じる「やりたい」「夢をみる」「恋をする」とかワクワク、ドキドキするとか個人の生を支配するあらゆる理性と感情のないまぜになった行動原理によって定まる。

このような生きている実感と直結する事実や出来事を取り除いたら人の生には何が残るのか?これには誰でも興味があるのではないかと思う。それを知るための試みは魅力的ではないか。


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