「四つの流れ」の原案


目次

自説「社会的地動説」という考え方

地球を宇宙から見た画像の表面には豊かな自然環境が観測できる。
科学的に地球が丸いこと、地球が自転と公転することを示す地動説が正しいことは証明されている。

しかし私たちは直感的には平面的な大地の続く世界の上で自分を中心にした像を思い描いて物事を考えている。まるで天動説で描かれた世界のように。

社会的な行動は人の生のあり方の中心であり、それは集団の中にある個人の位置づけや役割として説明されることが多い。政治・経済・社会・法律を始めとする社会科学の多様な学問領域もまた平面上で展開される。まるで人を中心とした平面的な同心円の重なりによって社会が形成されているという前提があるかのように。

「私たちは何者か」という問いに対し、科学的な知見に基づいて現実に観察できる姿に忠実に答えるなら、太古の地球に発生した生物の祖先から進化して文明を築き上げた知性を持ち合わせたヒトだと答えるだろう。
安定した土台の上に繊細で複雑なものが積み上がった結果として現在の人類が存在するのだと。丸い地球の大地に生命の素となる物質が存在して化学反応を繰り返した結果、生命に溢れる地球が現れ、その一部として人は生まれたのだ。

遠い宇宙から地球を見下ろせば、とりあえず私たちの生きる地球の姿を分かった気になっても間違いではないが、「私たちは何者か」と言う問いに対しては何もない空間に個人が発生する様子から捉え始めたい。

この視点は哲学か、心理学か、社会科学か?いや自然科学だ。

科学は動物と人間を隔てるものが何か、心の正体とは何かについても探究する。科学は観測できた現象を正しいと考える所から始める。既存の理論を覆すような科学的な発見によって何度も真実は書き換えられてきた。

それに比べて観測・証明できない心理の現れである人の行動を研究対象として世の中を捉える学問分野は主観的になりがちであるため、一義的に世の中を捉えるのは難しい。これが社会科学の抱える難点であったが、果たしてそうだろうか。

人の社会的な営みを普遍的な自然現象と同じ文脈で語ることはできないか。そんな仮定から一つの世界の像を考え出した。

私たちは生物だから生きることが目的だ。よって最も関心があるのは地球が宇宙から見てどのように映るか、その気候変動の行方がどうなるかについてではない。
人は類人猿から進化の分岐を経る祖先の代から現在にかけて、関心は変わらずどのように生き続けるかに向けられてきた。この先もその関心は変わらないだろう。

だから改めて問う。生物である人にとって世界を正しく見た姿は写真で捉えた丸い地球の姿とは違うのではないか?普通に考えれば違うのは当たり前だろう。

そして私たちの生を正しく捉えた姿は、自然科学の観点で捉える場合であってもヒトの個体の主観的な目線で観察する見方が妥当なのではないか。
身も蓋もないが人それぞれに世界も人生の有り様も異なるという見方だ。

宇宙から捉えた丸い地球の姿は、一生物の個体である人にとってはファンタジーに近いものなのではないか。このような発想から世界を捉え直した考えを「社会的地動説」と名付けた。人を中心とした球体で構成された世界が人の数だけ存在すると言う見方だ。

この考え方は、細胞が生物としての仕組みを得て最初に発生した様子をもとに想像を膨らませて発想した。
細胞の素となる分子が集まって細胞膜による球体を形成し、その内側と外側を隔て、内側に取り込まれた分子が流動して循環現象が起こり、化学反応による代謝も行われて継続的にエネルギーを生み出し消費する活動体である生命となる。このような生物の基本となる細胞の成り立ちの解釈を拡大して発想したのが社会的地動説だ。

細胞膜で包まれた一つの細胞の有り様を、個人を中心とした周囲を取り囲む環境要素の膜によって形成される球体に重ねたのだ。

その球体の中心にあるのは人の活動とそれに関わる現象の本体とも言える「個人が起こした行動」だ。

人の集まりである社会は、個人が起こす行動の複合的な作用によって形成され維持されている。このような社会を動かす力の中心である個人の行動によって、周囲との力関係が変わる環境領域を「行動的環境」と呼ぶ。
これは環境と言っても特定の事象を意味するものではなく、周囲環境に働きかける作用によって観測できる言わば足跡や軌跡を概念化したものだ。

「人がする行動」は他者がその様子を観察することでしか記述できない概念的なものだ。しかし本論では「個人がする行動」が探究の対象となる。それは個人にとって唯一、事実であると断言できる現象である。(2020/7/10)

「社会的地動説」と四つの流れが意味すること

内的秩序は人の数だけ無数に存在するという視点で語られた「社会的地動説」について。
これは4つの流れ理論の軸となる考え方である。自然科学の視点はフラットで整理されたものとして、青い地球の写真を例に述べた文がある。本論では、その視点と区別されるものとして個人に着目している。個人を中心とした秩序に着目することは、科学とは対極の偏った視点とも言える。

本論の視点は人の普遍性を明らかにすることにもなり、人の生のあり方を極端に括った考えに導くことにもなる。

しかし本論は「誰にとっても答えは異なる」という主旨だ。紛れもなく本論は哲学であり、いわば哲学の構造図、設計図である。内的秩序は個人ごとに異なるし、外的環境もそうだ。本論を読んで理解する過程は個人ごとに1~42の区分を埋めるエクササイズなのかも知れない。

考察の中で答えを出そうとした時に矛盾や限界を感じたのは気づいていなかったからだ。誰にとってもそれはそれは不可能ということに。
どれだけ追究しても、できるのは自分の内的秩序を想像することだけだ。キャリアデザインに使われる自己分析ツールと同じ作業だ。
例えるなら、塗り絵の線画だけの提供か。塗る人によって鮮やかさや細かさは異なる。その人が世界をどんな風に見ているかはその塗り方で分かる。世界は一つ、しかし見方は多様。それを知るためのテスターになり得る枠組みなのか。

筆者はあくまでもその記入者の一人に過ぎないことを強調したい。
書き込む人は最初にそのルールだけを聞く。宇宙があって地球があって‥両者の関わりは‥という4つの流れ理論の大枠を知るだけで、内容を埋める方法は自由だ。科学、経験、想像、どれを用いても正しい。そう思ったその人にとっての正解なのだ。

そして別の課題として人類全体とか別の主体を想像してみることもできる。
自分のことは赤裸々に書けなくても一般の話とすれば気持ちの上では書きやすいかも知れない。ただし、実際にこれほど書きづらいものはないことを僕は経験している。それほどに事実とは個別性の高いものなのだろう。

一番シンプルな大枠のみを示す。書く人によって詳細な像や知識は異なるので好きに埋めれば良い。本論はそんなフォーマットになるのではないか。
専門家や悩める人、探究心の強い人が気軽に取り組めるようなものか?そういう使い方に耐えるものなのか?まさに「問いかけ」なのだ。(2022/10/24)

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