考え方を公開する意図


目次

「分かりたい」という思い

学校で教わる授業科目、大学の学部で学ぶ学問、図書館や大きな書店に並ぶ多様な書籍。これらは私たちに何かを教えてくれる知性、知識の集まりだ。

綴られる文章には生身の人が経験して生み出した様々な人の生、営みが示されている。書籍の数々は人の体験の副産物であり、現代におけるSNSの発言も人の体験の断片だ。
現在、情報革命によって溺れるほどの言葉の中に生きている私達だが、生身の人間がやることは以下のように至ってシンプルだ。

朝に日が上り、夕方に日が沈み、その時の流れの中で眠くなれば寝て、お腹が空けば食事をして、何か興味があることがあればする。
そして死ななければ再び明日が来て、昨日までの体験を引き継いでその日を生きる。
このように述べることができる。

しかし、一つの身体で何とか日々を繰り返しながら生きる私たちの生は、様々な社会関係の中に断片化されている。
優れた知の集積である学問でさえ細かな言語に断片化されたものに過ぎず、生身の生の一側面しか照らせない。

そんな不自由さが知性や学問や言語の限界だとするなら、言語や記述に拘らずに生身の生そのものに似せたモデルを作り出せば表現の限界を越えられるのではないか?
このような夢のような途方もない望みを最初から描いていたわけではない。

最初はただ、どうしようもない不安に覆われた世界を、問題を解決できないとしても「分かりたい」という思いから始まった。分かればその避けられない苦しみを受け入れられると思った。
なぜ、自分は心から逃れたいと望みながらも、その死を避けられず受け入れなければならないのか?大雑把に書くとこんな感じだ。
もっと簡単に書けば、人が抱える複雑で避けられない難問について自分なりに答えを出したいと思った。
これが本論の発想に至る考察の始まりだ。(2022/9/25)

本論を公開するにあたり目指した最初の目標

4つの流れで取り上げている事象は、それぞれが既に深い学問的な追求がされているものだ。その研究内容に比べれば本論は簡素でつまらない記述に思える。
その意味で本論は学問の詳細の入り口のみを示す知識区分になるだろう。大したことは何も述べていないように見えるかもしれない。
だからこそ詳細な既存の知識へ導ける内容であることが重要になる。

このような多様な知識区分へのプラットフォームになれば役目の一つを果たせたと言える。公開するにあたり、まずは本論はそのための価値しかないのだと割り切り、この視点から詳細な知識へ辿り着けるような内容であることを目指したい。

雲をつかむような話ではなく、誰もが物事の詳細を知りたいのだから。(2022/8/3)

新たな学問的な態度を築けるか

本来であれば異なる学問分野となる知識区分をあえて一つの流れで捉えるモデルを提示することの利点は何か。
単に繋げて並べてみるだけではない。異なる知性の繋がりに着目することで各分野の重要度が相対的に見られるのだ。様々な学問分野の研究者や学生たちは自らの研究が人類の進歩や社会に貢献するものであると信じて日々研究に努めている。
しかし、進歩に貢献することは事実であっても、他の分野に比べてどうかという点は考えることは余りないのではないか。自らの個性で掴んだ知識分野を信じ、他の分野の研究成果には敬意を示しつつ、その人々にはその人なりの役割があるものと別のものと考えていないだろうか。

人の能力には限りがある以上、誰もがこのような考え方になることは避けられない。これが社会的な動物としての態度だ。だが、情報技術が進展した今なら、異なる自然観や人間観を描けるのではないか。4つの流れという考え方にはまだ見ぬ世界観(存在論)への希望が込められている。

本論で示される4つの要素(流れ)の関連から見えてくるのは、それぞれの要素の質と、その全体における働きと、要素によって異なる現象の強さだ。
異なる要素の性質を比較できるように同一線上の関わりの中に示し、その全体の中から必要な価値を取り出すための視点として、本論が役立つことを望む。(2021/10/10)

専門家であること

研究者は自分の専門分野の研究をする役割にはとても誠実であるが、そうではない分野に関してはどうだろうか?確信を持ってものが言える立場ではないとして、意見や感想は持つものの直接は関わりのないものと考えてはいないだろうか。それが専門家としての態度のあり方だから仕方がないのかも知れない。

勿論、どの分野の研究者達も良識に基づいて道を踏み外さない基準を持ち合わせており、人の役に立つための働きをしているだろう。
しかし現実には、自然を対象とした学問と人間を対象とした学問はそれぞれ異なる研究分野とされており、その二元論が問題として取り上げられている。

これは人が自らの欲を満たすために、都合の良いように別々の知恵として生活に取り込み利用してきた結果であろう。
自然現象や自然の資源のうち、利用しやすいものだけを取り込み自らの欲求を満たすこと。これは資源を利用するための学問や知識を研究する側ではなく、知識を求めて利用する側の資質の問題とは言い切れない。研究者の立場も政治的または経済的な支援を受けて守られた立場であることから、その研究内容が限られた目的のものである事を許容しているからだ。

本論の文脈で述べると「縦と横の行きの流れ(↑←)に着目する科学的な視点」と「縦と横の帰りの流れ(↓→)に着目する政治的な視点」をあえて分けてしまっていることが、自然/人間の二元論という問題を生み出していることになる。
本来は混ざり合ったものであることは本論によって明かされるとしても、現実に学問分野は別々に存在している。本論の考え方を元にしたとして少なくとも4つに分かれている。
だから仕方ないと言うのではなくそれらが一体のものとして提示されることで、人類が今向き合っている苦悩に対処する知識となるのではないか?これが大きなテーマになりそうだ。(2021/10/10)

導入文 誰でも分かる専門性とは?

数少ない限られた賢い人が答えを示すのではなく、誰もが自分の力で答えに辿り着ける真っ当な考察材料を示すべきだと考える。
これは「一般人にとって余りに専門的で複雑に思える学問や思想が多すぎるので本質を捉えたシンプルな姿を提示できないものか」という素朴な感想に対する返答だ。

今、この瞬間に人々は社会の複雑な仕組みを理解していなくても、その仕組みの内側で恩恵に預かり快適に暮らしている。それは何故なのか。私たちは何者か?という深遠な問いさえも不要に思えてくる。

その一方で、生活は苦しく快適に暮らせず、それなのに社会構造から逃げ出すことができず、それが何故なのかさえわからない人々も大勢いる。それが現代に生きる人の姿だ。

何故そのように私たちが存在できているのか。気分の良い思い込みに閉じこもり、それだけを本当のことであると信じて快適に暮らせているのか。それは多くの環境層に守られているからだとするのが本論の主旨の一つだ。

現在、世界に生きる人の立場はそれぞれ違う。しかし全ての人に共通する環境要素の分類構造がある。それを示す概念が環境層だ。

それぞれの人がどのような立場で存在しどのように生きているのか。その環境層の構造は個人の生活に組み込まれた形で、個人の力では変え難いまま次の世代へ引き継がれていく。
しかし全てが引き継がれるわけではない。人の行動で生まれる縦と横の帰りの流れは各環境層に少しずつ影響を与えている。

本論では、大きな影響力を持つ行きの流れと、小さいけれど確かで情熱的な帰りの流れの内訳に迫りたいと思う。その姿を明かすことで誰もが勇気を持ち、正しく今に向き合えたらと願う。

そのためには学びの姿勢は必要だ。
しかし物事を正しく知る手がかりが世界にどれだけあるだろう。それを知って核心的な事実に気づき、世界をより良く変える視点は得られるだろうか。本論が学びの姿勢を持つものにとって少しでも分かりやすい内容になればと思う。(2021/1/16)

イントロダクション 一般的な論文執筆の構成から

(何を前にして)
世界がコロナ禍や戦争によって既存の文化や産業構造を揺るがすような危機に直面している。SDGsで取り上げられているような問題も解決までに長い道のりを要する。

問題は山積しており、根本的な解決の糸口は掴めないままか、専門的で複雑な取り組みであり多くの一般人に身近なものとして理解可能で解決すべき問題として捉えられているとは言い難い。

(どういう問題に取り組むのか)
誰もが身近な問題として捉えられないのは何故か。それは問題提起が専門的すぎて、伝わりやすい形で提示できていないからだ。

高度に自動化された文明の恩恵を享受することに慣れた多くの人は、その文明の構造の問題に目を向けることを好まない。声高にSDGsへの取り組みを喧伝しても、未来の危機と現状維持の間には隔たりがあると考える人は多い。

専門性に基づく正しい理解は重要だ。しかし多くの人が問題を理解することへ関心を失うことはさらに問題だ。これは地道な教育と広報活動によって進められるべきだがまだ十分とは言えない。

(取り組む理由は)
この問題に取り組むこと。つまり多くの人が正しく直面する問題を捉えられるような見方を提示することは、身近な問題として専門家以外の誰もが解決に取り組む姿勢を推進するための基礎的な方策となる。

(どういう着眼で・着眼理由も含め)
それではどのような切り口でこの巨大で複雑な問題を捉えれば、正しく簡潔に一般の人にも理解できるだろうか。問題は全てが複雑に絡み合い関連している。よって視点は広く包括的で、多くの要素が統合されたものである必要がある。

広さとは空間の範囲も時間の範囲も意味する。尚かつ理解しやすさを求めるならばシンプルな要素に分割する必要がある。つまり時間的にも空間的にも広い範囲を正しく捉える、シンプルな見方が求められる。

(何をやるのか)
そこで、時間と空間をそれぞれシンプルに構造分割した上で正しく人の営みを理解し、そこに現在直面する問題がどのように位置付けられるかの理解を助けるモデルを提示したい。(2021/2/24)

本論に託す希望

放送大学大学院のオンライン授業の「文化人類学の最前線」第15回の視聴メモに記された内容を以下に引用する。
「人類は地球に棲息する生命体の一つとして、複雑に縺れ合った力の渦に翻弄されるしかないという真実」

本論は、この真実に真っ当に向き合うための視野の提示の意味合いを持っている。
そして、この記述の内のただ一点の誤りを明確な根拠とともに浮かび上がらせることができる。それは、この記述が運命論的な諦めを促すような内容であるのに対し、本論で示すことを試みるのはそれに立ち向かうための「行動の意味」であるからだ。
翻弄されるだけの運命に行動で立ち向かうのは、余りにもありふれた慰めと励ましであろう。しかし、より明確な根拠を元にその行動の持つ意味と大きさが伝われば、行動が大きな成果をもたらす助けになるのではないか。このような希望を託して公開することにする。(2021/10/23)

人の営みと「行動」の関係に糸口を見つける

「行動」は私たちの営みを知る上で中心的な概念であり、最も重要であるにも関わらず、実際に為される研究内容はその行動に関わる周囲の事象に偏りがちだ。
事象を分類して必要に応じて詳細に明らかにすることで進歩を成し得たのが科学的な研究の成果だろう。

しかし、行動を取り巻く要素の総合的な関わりを通して人の営みの姿とその大きさについて知ろうとする試みはどの程度あるだろうか。
様々な要素が絡み合って人は行動に至る。それは誰もが知る所であり、その要素は非常に複雑で解明するのが困難であることも承知している。
端的に運命という言葉で表されることもある。

人類の危機について科学者を始め多くの人が警告している。逃れるのは困難な問題が差し迫っている。それを運命であると受け入れる選択肢も私たちは持っている。

しかしまだ早いのではないか。何故受け入れざるを得ないのか理解することに手は尽くしたか?

人の行動の質と量を知ることを通して私たちのことをもっと良く知ることができる。その先に、何が運命として受け入れざるを得ないことか、そして私たちにできることは何かを知る手掛かりが見つかることを願う。(2021/10/10)

筆者のつぶやき

既に存在する秩序の中に発生する新たな生。
これほど人の生のあり方を端的に表現したものがあるだろうか?なんらかの秩序を持った構造の中に発生し、成長と発達の過程で内的秩序と外的環境の区分を内面に築いてゆく。何が内で何が外かを正しく認知できる者だけがその秩序の中で生きられる。これは発達心理学と社会学の視野を自分の表現で述べただけだ。

4つの流れ理論は深い問いかけなのかもしれない。誰も解けない難問がなぜ難しいのかを分かりやすく明かす仕組みを示そうとしている。

果てしない追求の旅をするつもりはない。筆者一人だけでは無理だ。ただできるのは不完全なものとして人間の言葉を発することのみ。(2022/6/9)

本論を立ち上げた理由についての本音

小難しい理論で複雑な社会を隅まで解き明かしたい訳ではない。
それよりも綺麗に透き通った理論で明かして自分を救いたいだけなのだ。現実の複雑な問題を解決できるような実務的な理論を築きたい訳ではない。
ただ、正しくて明快な美しい物を見つけ出して、お守りのように愛でたい。この世界にある自然物の美しさのように、人の姿もシンプルなものとして捉えたいのかもしれない。(2022/6/25)

何か一つの答えを導き出すものではない。一人一人が自分の生を考えるきっかけ、切り口の一つを提供することしかできないのだ。科学とは違うアプローチだから。科学知識を前提にしているが、論の構成方法は科学的ではないから。(2022/11/10)

本論を「学問の十徳ナイフ」という視点で見せる

欲しい学問をすぐに取り出せる十徳ナイフのようなコンセプト。
これを本論の見せ方、アピールの仕方、表現の仕方のアイデアとして思い付いた。伝えたい本質や考え方の部分は原材料というか題材に過ぎないので、見せ方の部分は別の考え方が必要だ。

考え方の本質を生のまま出すのではなく、初見の人に対して入りやすい導線を作る必要がある。そのヒントになるのが十徳ナイフの「何か便利そうでカッコいい」という見た目だ。

考え方を積み上げてきた手順とは全く異なるが、初見の人が興味を持てるような別の切り口から入って貰いたい。そのための良さと面白さを強調して見せたい。

この発想のきっかけは概要図上に番号を1~42まで振って区分して、それぞれに短く分かりやすい名前や題目を付けようと考えた時だ。
42の区分を分かりやすく伝えるために整理したり、それを表す語を示すために、学問や書籍のジャンル分けが応用できると考えた時に思い付いた。本論を初めて見る人からは、逆にそのようなジャンルを一覧で機能的に整理されたものに見えるのではないかと気づいたのだ。
そして、それが魅力的に思えるのではないかと考えた。この視点が様々な道具を一つにまとめた十徳ナイフらしく思えたので、そういう見た目や機能を売りにして掴みにしたいと思った。

4つの流れも十徳ナイフと同様に、個々の機能に特化した道具(学問)の方がずっと質が良く使い易いという特徴がある。そして、それを補う固有の魅力がある点も同様だと思う。

見せ方の方針が見えた気がする。
学問をいつでも取り出せるというコンセプトに合った仕掛けを図や定義の説明に取り入れること。これはあくまでも入り口で、詳細な考察は専門の学問分野を見てもらうしかない。

見せ方のコンセプトは「学問の十徳ナイフ」であるが、必ずしも完成しなくても良い。これが最終目的ではないのだから。そういうものを作ろうとしていると表明して助力を募るのも面白いかも知れない。(2022/10/12)

このサイトのもう一つのテーマ 知ることについて

「私と世界を知るための4つの流れ」~学校の勉強・生涯学習を通してたどり着きたい、もう一つのゴールに向けた道標~

これをサイトのタイトルとサブタイトル案として出した。
もう一つのゴールとは何だろう。ゴールとして思い付くのは望みを叶えるためとか就職とか生活のためだろう。もう一つとは何だろうか。
それは「知ることを知る」ということ。私は何を知っているのだろうか?知識を知るという謎かけのような文句。

筆者は「知りたい」という目的で40歳を前に大学に入学して様々な学問の入り口に向き合った。しかし、約4年間の学生生活を通して専門特化した知識が得られたとは言えない。教養学部で、興味のある授業を片端から取っただけだから。

何かを成し遂げるためではなく、知るために学んだことによって、知ることの醍醐味は知っているつもりだ。そんな自分が、これから勉強を始めようとしている人や、人生を豊かにするための生涯学習に興味がある人に向けて示す一つの視野。
それが「私と世界を知るための4つの流れ」だ。

自分はまだ入り口に立っただけだしゴールには多分辿り着けない。それは誰にとってもそうだし、だから面白いのだと思う。人は互いに教え合いながら成長、発展してきた。その積み重ねてきた知性の縮図が誰にでも取り回しのし易い形で示せたら、多くの人にとっての学問の敷居を下げることで集合知による大きな発展が期待できるのではないか。そんな夢を4つの流れ理論に託したいと思う。

その役目に適うものかどうかは見た人の判断に委ねられる。(2022/11/13)


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