用語に関する補足


目次

「情報」という語について

①『記号・文字・象形物』は認識上の情報を意図的に物質に写し取ったものを意味する。一般に情報という語が指すのはこの文字情報のことが多い。

②『情報』は事象を構成する要素である分子がもつ化学的な特性や機能を意味する語として用いる。

③『知覚・認知・思考・言語』は人の感覚器を通して受容する「知覚された情報」を意味する。文字とも分子の働きとも違う個人によって実際に知覚される情報である。
これは①と②が感覚器を通じて脳で受容され、整理・合成されることにより発現する。

この①~③をまとめて情報と呼ぶのがこの語の一般的な捉え方だが本論では分けて捉える。初期の考察段階ではこれらをまとめて情報的環境と一括りにしていたが、修正をして現在の形になった。

本論の完成稿の情報的環境(D)は直接ものを目で見て感じる仕組みだけを示す区分だ。「情報」は本論では文字(物的環境)→情報(情報的環境)→思考(人的環境)の関連の中で現れるものとしている。

文章や文字は物質の一種であり、言語は体験であり物質ではない。
体験を物質に刻み表したものが文字・文章だ。言語は体験や習慣と結びつく性質上、人的環境(F)に含まれる事象である。この区別に注意。

物的環境(B)に存在する文字・象形物・文章は人的環境(F)の外的環境として認知されることにより、人的環境(F)の内的秩序に取り入れられる。
これが文字と事象・事物をまとめて同じ感覚器(主に視覚)で受け取ることを通じて思考が築かれる過程である。ここで文字と事象・事物を関連づけるのだ。同じように文字と音声言語も関連づけて受容される。

「個人」という語について

用語について。
本論では個人を個体と呼ぶ場合がある。個体は生物学的な用語であるが人を自然の一部として捉えるのに適していると考えて用いている。

更に重要な点として、本論でいう個人は生物個体の定義である遺伝子情報に基づき形成された組織体、つまり身体を意味するのではないことだ。

人類が現在に至るまで存続して来れたのは行動の力によるものであることから、本論では行動という現象の詳細に着目する。
よって、個人を意味するものは自己意識でもなく、現出した行動そのものであるという前提で論を展開している。そして、行動に至る過程の心的作用も環境要素の一つとして捉えている。

個人を構成する主要な要素である身体や心理を除いて、行動のみを抽出し、それを一個人のあり方の中心としている点に注意してほしい。

一般に個人を認識する場合、当然にその人の身体を認識する。
本論ではどこまでが人のパーソナリティを規定するのかといった根源的な問題にも触れることになるが、難解な哲学を論じる意図は無い。しかしながら現代的な問題である情報技術によって人の心をコントロールする技術が生まれつつある状況に何らかの示唆を与えるものとなるだろう。(2021/7/21)

「行動」について

科学や一般的な学問の弱点(盲点)は、避けられない特性として言語を用いた記録と記憶と記述を手がかりに事象と向き合うシステムであると考える。

その結果、抜け落ちて見えづらくなった視点を補うための試みが人の行動を明らかにすることだと考える。

人の行動に関わる事象は膨大な記録や記述や記憶に覆われている。
しかし、個人の行動という一見明らかでいて捉え所のない事象は、その特性ゆえに軽視、あるいは気付かれないままに存在しているかのようだ。なぜなら、自己の行動は自身にとって明かである一方で、他者の行動は同様には捉えられないからだ。
膨大な記録や記述や記憶を生み出す元となる現象であるにもかかわらず「行動」という概念はその特性を脱することはできない。

その行動は何によって成り立つか?
行動の要因は主に心理学や哲学によって探究されている。そして、行動の持つ意味は時に運命や宗教的な神秘性に託されることもあるが十分とは思えない。ここから更に踏み込んで人の行動、人の営みの性質と量を把握する視点を模索したい。

所で、現代思想の分野では自然/人間の二元論が現代の問題の要因として挙げられ、問題の解決のためにそれに代わる思想が求められている。
現在の学問探求が自然と人を別のものとして行われていることも問題の根深さの表れだ。これが人の認知によって生み出された言語と記憶と記述と記録の仕組みの限界なのだろうか?越えられないから人は悩み続けるのか?

この問いに対する答えの鍵はやはり行動にある。
行動という現象は人も周囲の環境要素も巻き込んで発現する。これは当たり前のことであるが、その行動の周囲の仕組みを明らかにすること、いかに行動という現象に自然と人間が”混ざり込んでいる”のかを明らかにすること。

この姿勢が求められているのではないか。その基礎として本論が貢献できればと思う。(2021/10/27)

本論における「生命」の理解

本論の主題に関わる重要な視点に生命の定義がある。
言うまでもなく人は生物の一種である。生命は環境との関わりから導き出された定義の一つである「環境に対して反射・反応する構造体」として成り立っている。

生命の成り立ちはざっくり言えば、たまたま外環境と隔てられたカプセル状の物体が出来上がり、その内側に閉じ込められた物質が反応して「一定の環境下でカプセルの内と外を出入りする物質とエネルギーの循環が成立している時」にそのカプセルが生命と呼ばれるようになったとされている。このカプセルとはいわゆる細胞である。

成り立ちからして生物は環境の物質に大きな影響を受けているが、その周囲の環境と隔てられた内部の物質循環を成立させている状態を生命と呼ぶ。
そして生命を維持するために、環境の様々な状況を感知したり物質を取り込んで生かす仕組みを持っている。自然環境のもとに存在し、その環境の刺激や資源を取り込みながら固有の物質循環を維持している状態を指して生命と呼んでいるのだ。

以上のことから生命の定義を環境からの刺激に対する反射としても良さそうだ。
生物が環境の状況を感知して反応したり適応できるのは、小さいが独自の循環系を持っているからだ。その構造は外からの刺激を受け、変化し活動することで個体が維持されるのに都合が良いように働く。

この小さい独自の物質循環系で成り立つ生物と、地球システムとも呼ばれる巨大な循環系から成り立つ自然環境は異なる。
何より私たちの自己意識は小さな独自の循環系である身体の中に存在している。身体に心が宿っているのだ。同時に、身体より少し大きな人工的な循環系である社会の中に生きている。そして周囲の出来事に反応して生きている。
このことからも行動は環境への反射であることに異論はないかと思う。その裏付けとして、回りくどいが生命の成り立ちと分子生物学から見た環境と生物の関わり方の解析を用いることができよう。(2021/7/21)


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